きままにほろり

銀色のシールの貼ったゲームのネタバレ感想ほか、徒然なるままに。

公共の目

なにわの貸切で不適切な張り紙があったという話が先日のTLを駆けたのはこれを読まれる時にはまだ覚えられているのでしょうか、それともそんな話もあったかなと思い出すようなものでしょうか。 たまたま大学鉄研が主催する貸切で行われたことだからそこそこ盛り上がっただけで、夜行列車の窓にタペストリーを出してみたり普通列車の車内から窓を開けて張り紙を出してみたり…そうした奇行はこれまでも数知れずTLで目にしてきました。ですので私にしてみると「何を今更」みたいな感じなんですけど、ふと考えることがあり一般論として落書き程度にまとめてみることにしました。

 まず私が考えたのはこうした行為に走る思考として「公共の目」の欠如があるのではないかということです。今回話題になったのは貸切列車の車内での出来事ですが、掲出した彼らは貸切だからと自分の部屋と勘違いしたのではないかというものです。

そもそも貸切は普段では乗車出来ないような列車への乗車や、普段の乗車では出来ない催しの為にあると思っています。一般乗客とは別れたものではあるといえ、車内はあくまで公共空間であるという意識は欠かせません。何故なら貸切とはあくまでその車両の中で過ごす時間を使わせてもらうだけで、一時的でも自分の所有物では一切ないと思うからです。 今は自分達が使っているものの別の日には他人が利用している、図書館の本などもまさしくそうでしょう。例に出した図書館の本でも、借りている期間中に落丁や落書きなどの汚損は禁止されているでしょう。あの行為はあくまで鉄道車両が公共の物であるという意識が、彼らの中に欠落していた故のものだったのではないでしょうか。

公共の物であるという意識とは、自分のしようとしている行為が他人から見られた場合にどういった感情を抱かさせるかというのがあると思います。昨今では直接に注意される機会が減っているとは聞きますが、不快だったり何かしらの感情を抱かない人が増えたということではないでしょう。あくまでその場をやり過ごそうと我慢しているだけで、心の中では軽蔑の感情で渦巻いているのではないでしょうか。 そうした感情を抱かせない為には自分から自制する必要があり、それを「公共の目」とここでは定義しておきたいと思います。創作表現のように自制が過剰になり詰まる思いになってしまわないように、いい塩梅というのを自分で探していきたいものですが全く気にしないというのは通用しないと思います。 自制で予防することが前提とはなるものの、最早ああいった行為には直接注意で解らせる覚悟も今は必要なのかもしれません。